
2024年のドイツでのベルリン国際映画で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞したのは、イスラエル人とパレスチナ人、2人の監督(エヴァル・アブラハムとバーセル・アドラー)が共同で作った作品「No Nother Land」。
ガザへのイスラエルの攻撃に対する抗議
会場は残像の拍手で応えた。
しかし、このスピーチはドイツがタブーとしてきたものに触れた。
映画祭に出資しているベルリンの市長も問題視し、同映画祭への資金提供の見直しに言及した。
”昨日ベルリン国際映画祭で起きたことは到底容認できない。
反ユダヤ主義はベルリンに存在してはならない。
ベルリン国際映画祭の運営陣にはこのような事件が二度と起こらないよう強く求めます”
ドイツはユダヤ人国家イスラエルへの支援を国是としてきた。
その理由は80数年前、600万のユダヤ人を殺害した自らの過去にある。
その罪の償いを国家の柱としてきた。
2008年3月 アンゲラ・メルケル首相曰く”イスラエルの安全を守る責任があるのです”
もう一つ、イスラエルを最も強く支持してきた国アメリカ。
国連ではイスラエルに対してパレスティナでの入植の停止、ガザでの即時停戦などを求める決議案が繰り返し提出されてきたが、アメリカはその度に拒否権を行使して却下した。
その回数は1972年以降50回を超える。
アメリカのイスラエル支持にも80年前の記憶がある。
ホロコーストを知りながら止められず救えるはずの命を救えなかったという罪の意識である。
もう一つが人口の2%を占めるユダヤ系アメリカ人の存在。
影響力のあるその声を政権は無視できなかった。
イスラエルにとっては、私たちがそれを許していない。信じてください。
アウシュビッツから生還したユダヤ人の歴史家イェフダ・エルカナはこんな言葉を残している。
”アウシュビッツの灰燼から2つの国民が生まれました。二度とこのようなことが起きてはならないと主張する少数派 もう一つは二度とこのようなことが自分たちに起きてはならないと主張する多数派です。”
ドイツとアメリカが背負う重たい記憶、ホロコーストは過去の出来事ではない。今も世界を揺さぶり続けている
1943年、第二次世界大戦下のアメリカ・ニューヨークでWe Will Never Dieという舞台が注目を集めていた
ナチによるユダヤ人迫害を知ったアメリカのユダヤ人ポール・ムニが、東方の危機を世界に知らせるために作ったプログラムだった。
ユダヤ人の危機は、アメリカに広く伝えられたが、米国政府は決定的な対応をしなかった。
ナチが敗走を重ねる中、強制収容所が次々と解放されていった
ホロコーストの実態は想像を遥かに超えていた。
積み上げられた黒い塊、犠牲者から奪われた数十万足の靴である。
後のアメリカ大統領アイゼンハワーが収容所を訪れた際の映像が残っている。
アイゼンハワー曰く、”私が見たものは言葉には言い表せない。危害や残虐行為、獣のような狂った有様と収容者の証言は衝撃的で私は具合が悪くなった。あえて視察を行った理由は将来これがプロパガンダだと否定されるようなことがあれば証拠を提示できる立場にいたいと思ったからだ”
ホロコーストで奪われたユダヤ人の命はヨーロッパに住むユダヤ人の3分の2の600万人に上る。
キリスト教社会で異質な存在だったユダヤ人は中世以来ヨーロッパ各地で迫害を受けてきた。
19世紀末からはロシアや東欧でポグロムと呼ばれるユダヤ人の集団虐殺が繰り返された。
同じ時期に、ユダヤ人が安全に暮らせる場所を作ろうというシオニズム運動が始まる。
目指したのは、古代イスラエル王国のあった、中東、パレスチナ。
ホロコーストを生き延びた人々は、そのパレスチナに向う。
パレスチナ北部の港、ハイファで撮影された移民船の映像。
そのデッキには人があふれ、重みで船体が傾いている。
しかし、そのパレスチナには、長きに渡り、アラブ系の住民が暮らしていた。
二つの民の間で、衝突が始まった。
1947年、国連はパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割する案を決議。
翌年1948年5月、決議に基づきユダヤ人国家イスラエルが誕生。
独立宣言からわずか11分後
真っ先にイスラエルを承認したのはアメリカだった
当初大統領ハリー・トルーマンは承認をためらっていた
中東で巨大な油田が次々と見つかり、その利権を狙うアメリカにとってアラブ諸国との関係は無視できないものだった。
一人のユダヤ系アメリカ人がトルーマンの説得を続けていた
エドワード・ジェイコブソン
トルーマンと30年来の友人でかつて一緒に商売をした仲間だった。
ジェイコブソンはホロコーストの実態とユダヤ人国家の必要性を切々と訴えた。
トルーマンは次期大統領選を意識していた。
ユダヤ系有権者の支持を得たいという思惑があった。
トルーマンは言う「ヒトラーの犠牲となったユダヤ人たちの運命は私の心に深く刻まれている。大統領として直面した問題の中でイスラエル問題ほど物議を醸し複雑なものはなかった」
1949年、イスラエルに新たな支援国が現れる。
占領統治が終わったばかりの西ドイツである。
西ドイツはホロコーストの責任を認め、国家としての贖罪を表明する。
西ドイツが申し出た賠償は14年間で30億マルク。
現在の価値で2兆円近くに上る。
建国間もない西ドイツには重い負担だったが贖罪を国家の出発点としたのだ。
一方アメリカはイスラエル支援に及び腰だった。
定期便の運行など民間レベルの交流は存在したが、イスラエルにもアラブにも中立な政策を取っていた。
その頃一本の映画が公開された
「エクソダス」
ホロコーストを生き延びた人々が移民船エクソダス号に乗りパレスチナを目指す物語である。
アメリカのユダヤ人がハリウッドに依頼して制作した映画だった。
撮影はイスラエル政府の全面支援のもと現地で行われた。
戦闘シーンには実際のイスラエル兵が参加。
”この映画はイスラエルの成り立ちを知らない世界中の人々に計り知れない影響を与えるだろう”
アメリカの若い世代はイスラエル建国の成り立ちをこの映画で初めて知った。
しかしアメリカ政府の方針は変わらなかった。
ケネディ政権はイスラエルからの武器供与の要請には慎重で、イスラエルアラブ双方に配慮する姿勢をとっていた。
1960年、ホロコーストの過去が再び世界の前に姿を現した
ナチ高官アドルフ・アイヒマンの逮捕である
ユダヤ人一掃計画を統括し、ヨーロッパ各地から強制収容所へと送り出す仕組みを作った人物。
”死の列車”の最高責任者である。
戦後アイヒマンはアルゼンチンに逃れ、リカルド・クレメントの偽名で身を隠した。
その所在を突き止め追跡したのが、イスラエルの諜報機関、モサド。
アイヒマンの居場所を見つけ出し、自宅前の路上で誘拐。
自国の飛行機を使って、極秘でイスラエルへ移送。
1年後、エルサネムで裁判が始まった。
ナチの処業を裁くには、紙を読み上げるだけでは不十分。
何人もの証言により、ホロコーストを法廷で再現する必要がある。
世界各国から、500人以上の報道陣が集まった。
初めて法廷内へテレビカメラが持ち込まれ、ラジオの実況も行われた。
政府が選んだホロコースト生存者112人が証言台に立った。
ホロコーストの経験者はそれまで沈黙を続けていた。
ユダヤ人の弱さの象徴とみなされていたからである。
裁判の映像は、エルサレムから空輸され、世界に届けられた。欧米では多くの特集番組が作られた。
半年に及ぶ裁判の後にアイヒマンには死刑が言い渡された。
死刑がほとんど行われないイスラエルでは異例の判決だった。
この裁判を機に、弱さとして封じられていたホロコーストの記憶は国家を守る行動原理に組み替えられていった。
西ドイツの反響は複雑だった。
戦争が終わって16年、西ドイツは急激な経済成長を遂げていた。
過去よりもこれからに目を向けようという空気が広がっていた。
しかし2年後、そんな西ドイツの空気が一変する。
フランクフルト・アウシュビッツ裁判
ドイツの地でドイツの加害を裁く。
ユダヤ系ドイツ人検事の執念によって実現。
被告となったのは収容所に勤務していた監修や事務職員など22人。
中には囚人服を配っただけの人もいた。
22人のうち6人に終身刑が言い渡された。
ホロコーストは特別な誰かではなく、社会の中の普通の人々によって行われたという現実が突きつけられた。
西ドイツの空気が決定的に変わった。
若者たちは、ホロコーストの責任はナチだけでなくそれを許したドイツ社会にあると捉え始めた。
1970年、首相ドイツの首相ビリーブラントはポーランドのワルシャワを訪れた。
ユダヤ人が虐殺されたゲットーの跡地で跪いた。
このとき建国直後に約束したドイツのイスラエルへの賠償はすでに済んでいた
だのに、西ドイツは迫害を受けた個人への保障、失われた財産の返還、イスラエルへの物資援助を続けていった。
1967年、イスラエルは戦争の入り口に立たされていた
南の玄関口であるアカバ湾の出口をエジプトに封鎖され、物流が深刻なダメージを受ける。
冷戦の真っ只中、ソ連がアラブ軍に武器の供与を行い、軍事力が強化されていた。
アラブ側の指導者も本音を隠さなかった。
”この戦いは全面的なものとなる。我々の根本的な目的はイスラエルを破壊することだ。”
これに激しく反応したのがアメリカのユダヤ人だった。
迫りくる危機をホロコーストの再来として捉え、イスラエルへの資金提供を加速。
イスラエルは奇襲攻撃を仕掛け、第三次中東戦争が始まった。
戦闘はわずか6日で終わり、イスラエルが圧勝。
勝利したイスラエルはヨルダン川西側、ガザ地区、東エルサレム、さらにシナイ半島全域やゴラン高原を含む広大な地域を占領。
だがここで国連が動く。
5ヶ月後国連安保理は全開一致でイスラエルの撤退を求めた。
この時アメリカも撤退に賛成。
この決議は後のシナイ半島返還の前提となる。
だがアメリカ政府はアラブ軍に圧勝したイスラエルの軍事力に注目していた。
ジョンソン政権はイスラエルを中東でソ連に対抗するための軍事パートナーに位置付けた。
数千万ドルに過ぎなかった軍事援助は第4次中東戦争後には24億ドルへと膨れ上がった。
中東の力の均衡が変わった。
イスラエルは占領地に次々とユダヤ人居住地を作り、入植を進める。
占領地には検問所が設けられ、アラブ人は移動の自由を奪われた。
パレスチナ難民は170万人に増え、生活を奪われた。
国連安保理では再びイスラエルの撤退を求める決議案が提出された。
しかし、ただ一国、アメリカが反対に手を挙げた。
この時期を境に、アメリカはイスラエルを巡る決議に拒否権を行使していく。
1978年、国家間の強い結びつきを一般の人々の間にも広げたテレビドラマがアメリカで制作された。
「ホロコースト、戦争と家族」
2つの家族を通してホロコーストの残酷さを描いたドラマ。
4夜連続で放送。
ユダヤ系アメリカ人の団体は、全米各地で上映会を開いた。
大統領ジミー・カーターも、このドラマを見ていた。
ホロコーストに関する大統領委員会を設立。
ワシントンに、ホロコースト記念博物館を建設することを約束。
「アメリカによる揺るぎない安全保障によって、ホロコーストの悲劇が二度と起こらないことを約束し、イスラエルの存在を永遠に保障する。」
ドラマは西ドイツの政治も動かした。
シュミット政権はドラマ放送の年、30年だったナチ戦犯の時効の完全撤廃を決定。
この頃イスラエルの政治に転機が起こっていた。
イスラエルで初めて右派が政権を取り、リクード党のメナヒム・ベギンが首相となる。
ベギンはホロコーストで両親と兄を失っていた。
政権が力を入れたのは教育だった。
ホロコーストという科目が歴史の授業とは別に設けられ。高校の必修単位となった。
新しい教科書は230ページのすべてをホロコーストの記述が占めていた。
その後、高校生の修学旅行先はポーランドに定められた。
18歳で徴兵される前の若者たちはアウシュビッツなどを訪れ、民族の悲劇に触れることで国家を守る意味を刻み込んだ。
1981年ベギン政権は大規模な軍事行動に出る。
イラクのオシラク原子炉。
フランスの協力のもと建設が進められていた研究施設である。
これをベギンは核兵器開発の脅威があるという理由で空爆した。
国際社会から国際法を無視した先制攻撃と非難された。
危険の兆しがあれば先に叩く。
二度と同じ悲劇は許さない。
この考えはイスラエルの国家原則となり、後にベギンドクトリンと呼ばれるようになる。
だが、最大の支援国アメリカはこの攻撃に不快感を顕にした。
イスラエルが空爆に使用したのはアメリカ製のF-16戦闘機。
自衛のみに使うことという約束に違反していた。
アメリカ政府は戦闘機の納入を即座に停止。
関係修復のためベギンは渡米する。
時の大統領はロナルド・レーガン。
ベギンはレーガンなら話が通じると見ていた。
第二次世界大戦中レーガンは映画部隊に所属していた。
そしてホロコーストに関する映像に接していた。
ベギンいわく、”ホロコーストはアメリカに道義的責任を残した。つまりヒトラーの下でユダヤ人に起きたことが、二度と起こらないよう保障する責任だ。文明世界はヒトラーの狂気の最大の犠牲者となった人々に対して負うべき債務がある。”
さらにベギンにはもう一つアメリカを動かせるという読みがあった
アメリカ人口のおよそ25%を占めるキリスト教福音派。
共和党最大の基盤である。
福音派は聖書の言葉を絶対視する。
聖書の予言にはユダヤ人がパレスチナの地に帰還すれば、キリストの再臨が近づくと解釈できる記述がある。
彼らはこれを根拠にイスラエルを強く支持している。
ベギンは福音派の伝道師ファルウェルに今回の空爆の理解を求めた。
ファルウェルは支援を約束。
”ベギン氏はアメリカ国民に広く伝えてほしいと頼んできた。イスラエルは自衛しているだけだと”
レーガン政権はイスラエルへの強い制裁は行わず、F-16戦闘機の供与も数ヶ月後に再開した。
1990年東西ドイツ統一。
東ドイツはナチの罪を自らの歴史とは切り離してきた。
ユダヤ人を収容所から解放したのはソ連という物語の中で自分たちを加害者とは捉えていなかった。
統一によってその立場は一変。
この頃からドイツはイスラエルへの武器供与を本格化させていく。
中でも潜水艦の供与は大きかった。
イスラエルの核抑止力を支え、ドイツはその建造費を肩代わり。
1993年、ホロコーストを世界規模の記憶へと広げる映画が公開される。
「シンドラーのリスト」
ナチ党員でドイツ人実業家のシンドラーが多くのヨダヤ人を救った実話を元にした物語。
ロケは実際にホロコーストの現場となったポーランドのクラクフで行われ、ゲットーや強制収容所が大規模に再現された。
監督はスティーブン・スピルバーグ。ユダヤ系アメリカ人。
アカデミー賞7部門を受賞。
世界で3億ドルを超える興行収入を記録。
シンドラーのリストが公開された1993年に世界最大のホロコースト記念博物館がアメリカに誕生。
15年前にカーター大統領が設立を約束した記念館である。
ここには、世界各地の研究機関から集められた、膨大なホロコースト資料が展示されている。
ソ連崩壊後に公開された公文書もある。
国連が非公開としていた資料の開示に奔走した、一人のユダヤ人がいる。
若き日の、ベンヤミン・ネタニヤフ。
ニューヨークの国連本部から、資料を運び出す映像が記録されている。
ネタニヤフは、国連大使の職にあった。
1995年のラビン首相暗殺の翌年にネタニヤフはイスラエル首相の座に就いた。
ラビンが交わした中東和平のオスロ合意の履行を足踏みさせ、占領地への入植を拡大させていく。
イスラエルは世界有数の軍事大国となった。
国家の生存を守ることを最優先とする安全保障体制が形作られていく。
パレスチナとの分断は決定的なものとなった。
2023年10月、イスラエルの音楽祭の会場をパレスチナの武装組織ハマスが襲撃した。
一連の襲撃でおよそ1200人が殺害され200人以上が人質となった。
首相ネタニヤフは報復を宣言する。
翌日から市街地を含む広範囲への空爆を行った。
地上軍による大規模攻撃も開始。
ドイツのショルツ首相は、その9日後、イスラエルを訪れ、支援を表明。
”ドイツの歴史、ホロコーストの責任を負う。私たちの責任は、イスラエルの存在と安全を負う。”
しかし、ガザ攻撃は国際社会から避難を浴びた。
ガザ地区に入れない物資を積んだ車両の列。イスラエルの封鎖によって、ガザ地区への水と食料の供給が大幅に制限された。
死者の数は7万人を超えたと推定されている。大部分は民間人。
ジェノサイドだという声も上がった。
国際刑事裁判所は戦争犯罪及び人道に対する罪の疑いでネタニヤフ首相に逮捕状を出した。
ドイツでも抗議の声が広がり、イスラエル製品の不売を呼びかける動きも起こった。
これに対しドイツ政府は反ユダヤ主義だと問題視し、デモを行った団体への公的資金の停止や活動の制限を強めている。
アメリカでも若者を中心に抗議が広がった。
名門ハーバード大学では大規模なデモが起こった。
2025年トランプ政権は制裁として、同大学への補助金22億ドルを凍結した。
戦場に向かうイスラエル兵が必ず立ち寄る場所がある。
エルサレムにある国立ホロコースト記念館。
兵士たちはここで民族の悲劇と向き合い、前線へ向かう。
”アウシュビッツの灰燼から2つの国民が生まれました。二度とこのようなことが起きてはならないと主張する少数派 もう一つは二度とこのようなことが自分たちに起きてはならないと主張する多数派です。”
