
世界屈指の観光地、イタリア・ローマ。コロセオやポロ・ロマーノなど、遺構の数々が今も残る古代ローマ帝国。
古代ローマ帝国は、歴史上初の地中海世界統一を成し遂げた。
紀元前1世紀から、ヨーロッパから西アジア、オリエントにかけて広大な帝国を築き、空前の繁栄を誇った。
優れた土木建築技術で帝国一帯に都市を建設、ヨーロッパ各都市の礎を築く。
そんなローマの繁栄を支えていたものは何か。
近年シルクロードを通じたアジアとの交易がその命運を握っていたことが浮かび上がってきました
ローマの発展には特にオリエントの影響が大きかったことが見えてきました
岡本先生によるとヨーロッパがローマだというのは誤解かもしれない。
佐藤先生はそうは思わない。
今も世界各地にその姿を残す大帝国ローマの始まりは地中海イタリア半島に起こった都市国家
地中海を支配していたカルタゴを紀元前2世紀に打ち破り、やがて西アジアオリエントにまで勢力を広げる大帝国になった
初代皇帝はアウグストゥス
ローマ帝国の繁栄はどのようにもたらされたのか?
202年にパレスチナのガザ地区で、2000年前のローマ帝国時代の墓地を発見。125の墓が出土。
鉛で作られた棺は、イルカの装飾が施され、高貴な人物のものだと推定された。
古来ガザは、地中海とアラビア半島をつなぐオリエントの重要な交易地。
ローマ帝国の繁栄には、交易が欠かせませんでした。
ローマから遠く離れたインドで、ローマ帝国の金貨が大量に見つかる。
ローマの交易にとってアジアは極めて重要で、そのルートこそシルクロード。
ローマ帝国が輸入したのは乳香、胡椒に絹などのアラビアやインド、中国でしか生産されない高級品
ローマからの輸出品はガラスの器にワイン、サンゴなど
この交易を通じてローマ帝国は一時期国家予算の4割に達する利益を得ていた
その莫大な利益の秘密は輸出入の物品にかけた関税
ここで得られた収入が職業軍人による常備軍を支えた
膨大な財政を投じて組織した強大な軍事力によって各地を次々と攻略
ローマはそこにローマ様式の都市を建設
交易で得られた利益のおかげでローマは市民にかす税も軽くできました
また当時はローマの東にはイラン系の遊牧民国家パルティア
同じくイラン系のクシャーナ朝
そして中国の後漢と大国が並んでいました
安定した秩序の中でアジアとの交易を最大限に活用した帝国だったのです
西からローマ、パルティア、クシャーナチオ、後漢という風に巨大な帝国が並び立っていた
やはり交易にとって一番大事なのは輸送路が安全であるということ
安定した大国がそれぞれの地域をしっかり抑えることで通商上の安全性が確保されていた
それが、この時代のシルクロード交易が繁栄した大前提
海路での交易が非常に盛んでもあった
海のシルクロードという風に言ったりする
ローマから船でエジプトの方に行き、それから紅海に出て、アラビア半島の南の方に出て、そこから船で一気にインド洋を横断してインドの南西部に船で行く
それで大量にインドから胡椒とか、中国の金
胡椒は割と潤沢にローマ帝国に当時もたらされていた
だからブリテン島の端の方でも胡椒が見つかっていたりする
シルクロードだけではなくて
海の回路の方も道が切り開かれていたからこそ繁栄した
繁栄を謳歌したローマも2世紀の終わり衰退の兆し
そこにもシルクロードが大きく関わっていました
きっかけはアジアの東が迎えた危機
後漢で液量、干ばつ、洪水などの自然災害が相次ぎ
政治も乱れ、社会不安が広がります
信仰宗教勢力による184年の黄巾の乱
後漢は滅亡
その時、主要な木の織物産地が壊滅
シルクロード攻撃は大きな痛手を受けました
同じ頃ローマにも問題が襲いかかります。
それは、パンデミックと戦争。
アントニヌスの疫病と呼ばれた感染症が蔓延。
さらに、周辺の地域との戦争が続き、戦費はかさむ一方でした。
しかし、それを賄うだけの利益が、もはやシルクロード交易からは得られず。
こうして衰退したローマは、4世紀、395年に東西に分裂
東の端、後漢で起きたことから、どんどん崩れていったような印象を受けたんですが、そんなに影響は大きかったんですか?
そうですねやはり当時の世界というのは先ほどからお話ししているように
交易を通じて一つの世界としてつながっているんですね
だから一つのシステムになっていますので
一箇所が崩れるとと全部に影響する
ですからある種のグローバルな社会に当時なっていたということだと思います
こうやってやはりその疫病とかが起こってくるとですね
基本的にやっぱり購買力が失われていくんですよね
人口が減少したりしますので産地がダメになる
戦乱とかが起こると人口が減少して物を買う人が減る
そうすると経済は沈退
この時期のローマは軍人皇帝時代と呼ばれる時代になっていて
それまでの繁栄した時代と一転し
軍隊によって皇帝に擁立された人物が次々と皇帝になって倒れていく
政治的混乱の時期にローマの方でもなっていたと
中国と同じ頃にやはりローマも大混乱に陥っているということになっていた
シルクロードとローマの関係とっても密接だったんですね
アジアから見る世界史
その視点に立つとローマ帝国の統治の仕方に
オリエントとの類似性が浮かび上がるといいます
すべての道はローマに通ず
ローマは広い帝国に点在する都市を街道で結び
州ごとに総督を派遣して統治
この方法は紀元前6世紀
オリエントを統一した初の世界帝国
アケメネス朝ペルシャのシステムと同じものでした
さらにローマはその支配した土地の宗教や慣習を認めました
それはアケメネス朝と同じ寛容な統治
一方ローマ独自の仕組みが市民権です
奴隷でも他民族でも様々な方法で
市民権を得られる機会がありました
ディプローマ(ローマの市民憲章) 23年の兵役を果たした者とその息子に市民権を与える
オリエントで生まれた仕組みを生かしながら
帝国を治めたのがローマだった
オリエントとのつながりが強かったというのが
いろいろなところから見えてくる
そうですね
しかもこれだけの広大な地域ですので
みんながみんな同じわけではない
そういうのはどういうふうに共存させていくか
はアケメネス朝ペルシャ(オリエント)の知恵に学んだところが
大きいのではないか
ローマの寛容さが単的に表れているのは市民権
ローマは征服した土地の人たちにもローマ市民権を与える
市民権を与えるというのは要するにローマ人と同じ権利を持てるということ
政治的な意味でも経済的な意味でも
だからどんどん仲間を作っていくというのがローマのやり方
ローマ人になるには何か条件というのはあった?
いや何もない
どこの地域に住んでいようがどんな宗教を信奉していようが
どんな言語を話していようがOKだったんですよね
なりたいって言えばOKだった
まあ、与える条件はいろいろな状況で変わってくることはあるが、基本的にそういう人種民族言語による差別なくローマ市民になることができた。
で、これはですね、もう建国当初からローマはそういう風な考え。
まあ神話によく反映されてるんですけれども、ローマはですね、有名な狼に育てられた少年、ロムルスとレムスという双子の少年に起源がある。
で、その狼に育てられた少年が町を作る。町作ろうと思ったら人呼んでこないといけない。
どうするかというので誰でもいいからうちに来てくれたら仲間にするよみたいな感じで呼び集める
そうすると社会的にはみ出た人たちがいろんな人をあらゆる人を呼び寄せてきて
ローマは街を作ったというそういう風な神話がある
だからローマ人は自分たちがそもそもいろんな人たちから成り立っているという風に考えていた
対照的だったのがギリシャ
古代ギリシャというと民主主義が生まれた国なので結構自由で
そういう身分の上昇も可能だったように見えるが
ギリシャの方は逆で市民権を非常に制限した
代表的なのがギリシャの都市アテネ
そこだと両親ともにアテネ市民でないと子供は市民権をもらえないとかですね
ギリシャは小さな国のままで歴史の中から消えていく
似てるようで実はギリシャローマってセットにされるんだけれども
だいぶ違うところも実はある
アジアから見る世界史を提唱する岡本さんは
ローマとオリエントの関係について従来とは違う見方をしています
西のローマが東のオリエントに拡大していったのではなく
その逆だと捉えている
オリエントというようなものの文化システムというようなものが
むしろローマの基盤
極論を言ってしまえば
オリエントの西への拡大というのが
ローマ帝国だったのではないか
井上さんはローマはオリエントだとは思わない
やはりローマ帝国というのは
場所から見てもイタリア半島という
西ヨーロッパで起こった国家で
それがオリエントの地域を支配していた国家だと
井上さんは考え、ローマはオリエントではないと思う
オリエントの特徴としてこれまで出てきているのが
遊牧民の存在なんですよね
遊牧民が接している地域をある意味で
オリエント、ないしはアジアと言っており
ローマのあたりはやっぱりそれはやっぱり接してない
そういう意味から言ってもローマはオリエントとは違うん
岡本先生によると、
確かに遊牧民そのものは
ローマにいなかったというのは確かかなと思います
ですけれどもローマ帝国というと
やっぱり地中海
元々の基盤というのは都市国家というようなものが
地中海にたくさんあったと
じゃあなんで地中海に都市国家があったのか
今のシリアあるいはパレスチナっていう
地中海の東岸にフェニキアという国があった
当然シリアですから、シルクロードで繋がっていて、
シルクロードで陸路でやってきた交易を、
今度は海に繋いで地中海に展開をしていくというのが、
フィニキュアの活動。
馬と船って、海と陸っていうのは、
全然違うような感じがするわけですけれども、
実は意外な共通点があった。
というのは、非常に高速で移動するできること。
遠隔地の交易を結ぶことができること。
そういう風に考えてみると、フィニキュア人が、
地中海で、船で遊牧民がやっていたのと、
同じような役割を果たしていたという風に見ておりますと
このフィニキア、ギリシャ、ローマという風な形で続いていた
なので地中海世界は実はオリエントの西に拡大したバージョン。
ローマ帝国もオリエントなんじゃないかと
井上先生曰く、東ローマ帝国はオリエントだと言ってもいいと思う
例えば面白いのがですね
東ローマには宦官がいる
東ローマには宦官がいて
ずっと文化として残るんです
有名な中国にもいっぱい宦官がいたというのはご存知の通りで
アジアの国家の一つの特徴として宦官のいるいないというのがあって
ちなみに日本にも宦官はいない
西と東の端っこに宦官はいなくて
遊牧民に接して北から圧力を受けていたような地域にはそういう宦官がいたりする
家畜もやっぱり生殖コントロールという去勢というのがあり
そこが牧畜だという話と絡む
ローマはオリエントの影響を強く受けていたことが改めてわかった
さて、ついにローマは滅亡に向かう
引き金はゲルマン人の大移動
ユーラシア大陸の北方に住んでいたゲルマンの諸民族が大挙して南下してきた
難民のように押し寄せる人々
ローマ市民との間に武力衝突も起きます
一体なぜゲルマン人は移動してきたのか
近年注目される説は気候変動
これはヨーロッパの地目の年齢の分析から明らかになった
気温の変動のグラフです
3世紀頃からユーラシア大陸の気温が下がり
寒冷化、乾燥化に向かったことが明らかになってきました
北方で作物が育たなくなり
深刻な影響を受けた人々がいました
アジア中央部に暮らした遊牧民、フン人です
生きるために彼らは西に移動してきました
その結果、ゴート人などゲルマンの様々な民族が押し出され
ローマ帝国に侵入してきたのです
度重なるゲルマンの侵入
内政の混乱で弱体化していたローマ帝国は
395年東西分裂
西ローマ帝国は476年に滅亡
西ローマの地域は小さな国が活挙する状況となりました
移動してきたゲルマン人による国が
イギリス(アングロサクソン七王国)、スペイン(西ゴート王国)、フランス(フランク王国)、ドイツ(フランク王国)、イタリア(東ゴート王国)など
現在のヨーロッパの国々の原型となった
北半球寒冷化してくるっていうようなことっていうのが
非常に大きな影響を及ぼしたっていう風なことがですね
言われてきつつあって
これは生命に関わる大変なことになりますし
遊牧民だとフン族っていうのがですね
移動してくる
それよりも南にないしは西に住んでいたゲルマン庶民族っていうのは
玉突き現象的に退去してワッと入っていく
そうしてヨーロッパっていうようなものがですね
生まれてくるきっかけになった
西ローマ帝国は476年に滅亡してしまった
一方で東ローマ帝国はその後も長い間存続していったんですが
この違いっていうのはどうして生まれたんでしょうか
一つですね決定的に重要だったのはコンスタンチノープルという場所
ゲルマ民族は地図を見てもらったら分かるようにバルカン半島の辺りにまでは入ってくる
ところがコンスタンチノープルというのが南国不落の要塞のような都市で
ここを突破できなければこの豊かな地域に入れなかった
逆に言うと東ローマはコンスタンチノフローを守れたので豊かなオリエントを保持できた
それでまず財政的に非常に安定していた
財政があれば軍隊もしっかり養い
さらにシルクロードにつなげていれば東と近い分シルクロードの貿易とかも維持できている
いろんな意味で経済的に豊かだった
変わって西側というのは前回ちょっとお話ししたようにヨーロッパは貧しいんです
貧しいってことは軍隊はちゃんと養えない
倒壊するのはある意味で当然だと言える状況が西の状況だったんですね
じゃあゲルマン民族たちももう移動するならこっち行った方がいい
西の方が楽だと楽に突破していけるということ
なるほど気候変動っていうのはローマ帝国の他にも影響で出た?
それはやっぱり中国の後漢ですね
やはり同じようなプロセスをたどって
遊牧民が南下をしてきて、それで領内にドッと入ってきてですね、各地に王国ができた。
なるほどそんな大きな歴史の動きにさらされたローマですが一つ気になることがあります
それはなぜローマはヨーロッパの源流と思われてきたのかということ
ローマ市内に35カ所の地下に墓所カタコンベがあり、そこで密かにキリスト教が信仰された
基本的には宗教には寛容だったローマ帝国
しかし帝国支配の安定を揺るがす宗教に対しては厳しく対処
その一つがキリスト教
キリスト教とは伝統的な神々の崇拝を拒否したため
周囲の人々との間に圧力が生まれ迫害されていました
しかしキリスト教は衰退に向かうローマで
都市に暮らす庶民や女性を中心に広がりを見せた
そんな中コンスタンティノープルに首都を移し
軍事や経済に様々な改革を行ったコンスタンティヌス帝が
初めてキリスト教を公認し自らもキリスト教に改修します
その後キリスト教はローマ帝国の国教となり
ヨーロッパの各地にキリスト教が広がっていく大きな要因となった
このキリスト教がローマの公式な宗教になったというのはどんな意味があった?
ローマは宗教的にも非常に寛容で
いろんなものを認めていた多神教的な世界だったわけですね
それがキリスト教というものしか信仰を認めないというのは
大変大きな転換になっていくと思います
やはりキリスト教をコンスタンティネスという皇帝が
公認したというのは非常に大きな意味があった
特に面白いのはコンスタンティヌスがキリスト教を公認した時に
コンスタンティヌスは実はローマ帝国全土の皇帝ではなかった
西側だけを支配していた
さらに面白いのはその西側には当時キリスト教徒はほとんどいなかった
キリスト教というのは歴史上ずっと迫害されてきたので
今日キリスト教国の代表みたいに生まれている地域に
実はキリスト教徒はほとんどいなかった
コンスタンティヌスがキリスト教を公認してからこそ
西ヨーロッパにキリスト教が入っていくことになった
そういう意味で現在のキリスト教社会を中心にした
ヨーロッパの誕生の起源というのが
コンスタンティヌスのキリスト教公認、普及こにあった
それにキリストというのはパルスチナ
イスラエルとかあの辺りの起源
つまりそこなオリエント
ローマ帝国というようなものがオリエント起源の
キリスト教をきっかけにして大きく変わったとも言える
